新月サンと一緒に基地にお邪魔して草刈。 裏庭の草は最初に比べたら大分控えめになって、 さらーっと払ったら終わってしまいましたわ。 表の生垣も妙に伸びた枝を整理したらおしまい。 で、裏庭にキウイがゴロゴロ生っていたので 採れるだけ採ったら袋が一杯に♪ アニさまと雫サンが 「誰も食べないから全部持って帰っていいよ」 と言うので遠慮なく頂戴いたしました(喜)
我が名はテオマチャ 004
「テオマチャ」と発音するのが正しいかどうかはさておき、この学名を直訳すると「背中が黒い」。霙が契約した新しいクルマは、つまりツートンカラーで車体色とは別に屋根が黒いモデル。霰のハスラーが「ヤマタノオジロ」と名付けられたのは、屋根が白くてその延長上に白いルーフエンドスポイラーが付いているからでした(ヤマタノ、という部分はあれが2台めだから「やぁ、またオジロですね」という対話がありました)
たぶん、このクルマはテオマチャというより「セグロ」と呼称されるのではないかと思われます。これも「オジロ」に対する言葉遊びで、霙は「良いですね!」と気に入ってくれました。よって「我が名はテオマチャ」というタイトルは本ブログの記事タイトルと、おそらく「フィガロの昨今」を引き継ぐ新しいウェブ版のタイトルになっていくでしょう。
ところで・・・発音について、Google先輩に翻訳させると「テオマハ」となります。うーむそうなのか。もうどっちでもいいや。
我が家に初代エスクードばかり3台が保有されているのは単に物好きなだけのことですが、3台並べて悦に入るというしょーもない趣味性ではなく(やってるだろー)、実用としての使い方はきちんと行われています。うち2台は「なんだかどこかの営業車」みたいにしか見えないのが泣けてきます。本当はそうではなく、同型車が複数用意され、尚且つ用途に応じた仕様の異なる配備状態をイメージしてもらいたかったりするわけです。
なんでそんなことをしたかったんだろうとしばらく考えていたのですが、おそらくそれは、1960年代の映像が脳裏に焼き付いたまま歳を取ったからではないかと思い至りました。その頃、光学合成とかはめ込み処理なんていう技術にまで知識が及びませんでしたから、地球防衛軍の車庫には同型車が3台もあるんだ!とブラウン管にかじりついていました。きっとこれをやりたくて仕方がない潜在意識があるんだと思います。特撮合成ではなく実車でやってるところが採算上大問題ですが。
さすがにポインターを現実に起こしてしまうほどの熱烈なファンにはならなかったのですが、防衛チームの特殊車両群にエスクードを混ぜたいという願望が無かったわけではありません。これもまた「ゴジラVSメカゴジラ」において、初代エスクードが面目躍如してくれましたが他のメカニックとの絡みはない。ということで、GUTSあたりならばブレイザー、カマロを使っているので、昔のスズキとシボレーの提携関係で「あったかもしれないよ」という組み合わせをやっております。
Helly Hansen limited
今思えばバブル景気だったのだと実感しますが、全国限定400台と台数を絞られていたとはいえ、1989年式のヘリーハンセン・リミテッドにはエクステリアにしても防錆処理にしても、程度問題かもしれないけれどコスト度外視の架装が施されていました。が、この限定車のコンバーチブルというのは、それを買い求めに行ったら「うちには回ってこない」(当時のディーラー)と言われ、現車を見たことがありません。このキャリアの下に幌を掛けるって、けっこうめんどくさかったことでしょう。
ディーラーでは「割り当てられたのは2台だけです」と言われて、大慌てで契約したのはインビエルノ・ブルーメタリックという水色のハードトップ(写真の左端)でしたが、後に霞ヶ浦にて色違いのハードトップと遭遇し、小一時間待ったけれど所有者はどこに行ったのかついぞ現れず、コンタクトに失敗したことがあります。オートエキスポ社製のルーフキャリアとスポイラーは、最初のヘリーハンセン・リミテッドの一番の特徴でした。
90年代に入って、これらのパーツはスーパーデザインコレクションとして一時的に市販され、僕もフロントグリルガードと補助灯、アンダーガードを追加装備していましたが、この頃きわめて近くにもう一台、カタログモデルをベースにヘリーハンセン・リミテッドスタイルに仕上げたエスクードに乗っていたユーザーさんが存在しました。あとから知ることになるこのエスクード、何を隠そうあのコムロさんの所有で、彼のエスクードフリークの出発点となった1台です。
(3点目の写真はコムロさんの撮影。つくばーど®ギャラリーから持ち出し)
とある日の夕飯。
光りかがよう麗しい姫の物語
1935年11月、11日に京都宝塚劇場で封切られ、21日から日本劇場でも公開された「かぐや姫」は、後に東宝映画の一部となる京都所在のJ.O.スタヂオによる音楽映画で、同時に特撮映画でもありました。田中喜次監督の下で特殊撮影も含む撮影担当に就いていたのが、円谷英二さんでした。題材が題材ですから当然、特撮も用いられているわけですが、90年も前の映画だけにまだ観たことがありません。なんせ僕の親父が生まれた年の上映ですもん。
円谷さんは先日、アメリカの視覚効果協会が特撮技術者として殿堂入りを認めました。「ゴジラ」や「ウルトラQ」などが円谷さんの評価軸と云われて久しいですが、アメリカ人というか、GHQを震撼させた腕前は戦時中の「ハワイ、マレー沖海戦」だったと思いますし、それよりもずっと昔の「かぐや姫」は失われていたフィルムのうちのひとつがイギリスで保管されていたくらいですから、何さ今頃殿堂入りなんてと言いたいほど世界的なクリエイターだったのです。
閑話休題
円谷さんが撮影に従事したこのスタジオでは当時、市川崑さんもアニメーターとして働いていたそうで、その縁かどうかは知りませんが市川監督作品として1987年に東宝から「竹取物語」が送り出されているのも面白い話です。こちらもなかなか派手な特撮を投入していて、物語のSF性を押し出していました。
かぐや、という名前は、星や光がまたたききらめく様を示す「かがよう」なる言葉に由来するそうで、これは竹林の中で光り輝く竹からいずる赤子の姿を目撃した竹取の翁のファーストコンタクトによるものなのでしょう。ただし翁に引き取られた赤子は「なよ竹」と呼ばれていたはずで、その後名づけ親として御室戸斎部の秋田氏が登場してきます。
いずれにしても、平安初頭に宇宙と超越した生命とを織り交ぜた空想を興す想像力は素晴らしいものがあります。この主人公をスサノオやヤマトタケルのような英傑伝とせず、女性として描いたところもセンスの高さを感じます。
今度は手首が痛い右手・・・ この痛い加減は身に覚えがあるんだが(汗) ・・・手(首)が痛いぞ(汗) シップして様子見てたんだけど、一向に治まらない痛み。 整形外科に行ったとてシップ貰って終わりっぽいので 物理的に、痛みが出る方へ曲げられないように サポーターで固定してみました。 大袈裟な見た目だわ まあこれでもキーボードは叩けるし字も書ける。 なんとかなる・・・か?!
夢を見せてもらったひと時
20年前、神栖市の海岸にて、BLUEらすかるの隣に先代らすかるが並んでいるような、現実にはあり得ない風景を見せてもらったことがあります。
この場所はつくばーど®の「Sレイド」をスタートさせたところでもあり、仕掛けた方がびっくりさせられるほどたくさんの挑戦者が訪ねてくれた海岸です。このTA11Wもその1台で、前夜から走り通して青森県からやってきたエスクードでした。
屋根に取り付けてあるキャリアは、先代らすかるから移植したもの。宅配便で送ったのが、まさしく2005年のBLUEらすかるの就航日だったのですが、このユーザーももかさんは翌年に始めたSレイドにトライし、現車を見せに来てくれたことで、夢のようなコンビネーションが実現しました。
その後、今度は先代らすかるの車体色とBLUEらすかるの基本形をミックスしたТD51Wのヘリーハンセン・リミテッドと「その手があったか!」というエスクードと出会っていくのですが、Maroさんはアルミホイールまでコーディネートを合わせる念の入り様。しかもBLUEらすかるの同型車であるТD61Wもお父さん用に所有している、そんなのとても敵いませんわ、なユーザーさんです。沢山のエスクード乗りとの邂逅は、それらすべてが夢を形にしてもらえたひと時なのです。





